瀬戸内地方における除虫菊の栽培について
       -香川県詫間町を事例として-


【除虫菊とは】

 除虫菊とは蚊取り線香の原料で、一般に「シロバナムシヨケギク」と「アカバナムシヨケギク」があります。蚊取り線香などの殺虫原料として使われているのは「シロバナムシヨケギク」のほうで、ピレトリン類の殺虫成分が乾花中に13%含まれており葉や茎にはほとんど含まれていません。
 原産はユーゴスラビアのダルマチア地方で、荒れた土地でも栽培が可能である。日本の場合、花が咲くのは5月の下旬頃から6月の上旬にかけてがほとんどのようである。栽培されている国は、原産地のユーゴスラビアをはじめアメリカ、日本、ケニアなど。

【日本の除虫菊】

日本では明治18年にアメリカより和歌山県へ入ってきました。その後瀬戸内地方、全国へと広がり、生産量は1938年で13,000トンにもなりました。
しかしながら、戦前戦後の食糧増産のため、日本の除虫菊畑はいも畑に変わり栽培面積も減少していきました。その一方で、化学合成品の開発や実用化がされるようになり除虫菊は栽培されなくなっていきました。ついには除虫菊があまり必要とされなくなってしまいました。もともと蚊取り線香の原料だった除虫菊も、現在では香りづけのみにしか使用されなくなってしまいました。
日本の除虫菊の輸入は、昭和35年に除虫菊のエキス粕1,500トンをケニアより輸入したのを皮切りに、翌年の昭和36年で除虫菊エキス18.2トン、昭和37年からは乾花を毎年300〜500トン輸入していきました。もちろん日本の除虫菊栽培が絶滅したわけではありません。品種改良の努力も重ねられており、北海道の「わっさむ」、広島の「しらゆき」など高品位なものも誕生していました。しかしその生産量となるとピークであった昭和10年ごろの約10%の1,000トン少々というところであった。その昔、日本が台頭してユーゴスラビアを衰退に追い込んだように、今度はケニアなどアフリカの急速な成長によって日本が没落していく運命をたどったのである。世界最大の除虫菊生産輸出国の面影はなくなってしまった。

【詫間町の除虫菊】<現地での聞き取り調査より>

○歴 史

この土地で除虫菊が作り始められたのは明治の末期ごろ国から認められた人のみの栽培だったそうですが、100年以上も前の話なのではっきりしたことはわかっていません。作り始めたきっかけは、瀬戸内式気候である瀬戸内海の島々において、雨が少なく日照時間が長くて霜が降りないなどの花作りにはぴったりの条件がそろっていたことでした。それに詫間町が山の沈降によってできたので平地が少なく、段々畑が主で農業収入が少なかったので換金作物としても導入されていました。大正初期になると国の許可なしで栽培できるようになりましたが戦時中は中断せざるをえなくなりました。しかし、戦後再び栽培されるようになると昭和32年にはピークをむかえ、農協の調べによると年間60トンを生産するほどになりました。
しかし、化学薬品の登場によって価格が落ち、採算が合わなくなったこと、一般向けの花の消費が増え始めて経済的な面でも良くなったこと、更に国の減反政策によって全国的に花作りが広まったこと、などの理由から詫間町では、除虫菊の栽培から花(マーガレット・小菊など)の栽培へと変わっていったようです。今でもその花の売上高が約5億円で、香川県の全農協のうちでも、小豆島のJA香川・池田についで2番目となっております。マーガレット・小菊の主な出荷先は大阪・神戸ですが、最近では飛行機で東京にも運ばれているようです。

○品 種

昔から栽培していた品種については正確にはわからないそうですが、「在来種」と呼んでいたそうです。昭和35年頃、広島の因島で「しらゆき」が開発されると、詫間町でもその年すぐに導入されました。

○対 策

栽培の際の苦労として、育苗期間中の梅雨によく起きる苗の立ち腐れ病、本圃生育中の根腐れ病・白絹病などの病害や害虫の影響などがあります。共に原因は自然環境にあるため、完全なる防止は難しいと思いますが、少なくする努力はなされていたようです。例えば、根腐れ病は槌中に水がたまりすぎて根が腐ってしまうという病気ですが、普通の畑より比較的水はけの良い段々畑を利用して減らそうとしていたようです。害虫の問題については、苗の間に麦をひいて防いでいたようです。

○出 荷

翌年に植えるための種子用以外の花は茎から収穫し、千歯こきで花だけを取り天日で乾燥させます。30kgの麻袋に入れ国の検査を受けた後、階級づけをして和歌山の大日本除虫菊株式会社(現在の「金鳥」)へと出荷していたようです。しかし、これは農協の扱っている部分のことで、一般の商社などは岡山のほうへ主に出荷していたようです。

○その後

諸問題から昭和53年には栽培件数が2件までに落ち込み、昭和55年を最後に詫間町では除虫菊が栽培されなくなりました。しかし、平成5年ごろ村おこしや教育の一環、観賞用として再び栽培されるようになりました。2アールほどではありましたが、実に16年ぶりになつかしい白い花を咲かせたのです。そして、現在では観賞用だけではなく環境にやさしいとして企業も注目されるようになりました。しかし、どうしても農家の担い手や過疎化、高齢化などといった問題は山積みのようです。いかにして、活性化させていくかが今後の課題となりそうです。

【参考文献】

烏山芳織ほか(1996):除虫菊と蚊取り線香―香川より幻の除虫菊を求めて―、第30回生徒地理研究発表大会資料
烏山芳織ほか(1995):菊、聞く、聞く―香川より幻の除虫菊を求めて―、『1995年度 郊外学習報告集』、千葉県立国府台高等学校

【資料提供、調査協力】

大日本除虫菊株式会社大阪本社 消費者相談室
JA詫間町
香川県三豊郡詫間町役場
1995年度郊外学習2組6班のみなさん